2016-03-11

5年前の仕事場を振り返る

東日本大震災から5年になります。この機会に、当時の私の仕事場と周辺の様子を写真とともに振り返ってみたいと思います。

地震発生の瞬間、私は、研究グループの合宿を1週間後に控え、合宿の最終案内のメールを書いていました。揺れを感じてオフィスの入口まで行きましたが、揺れはそれ程大きくなかったので、再び自分の机の前に戻りました。しかし、揺れは大きくはないものの、収まる気配がないことを不審に思い、「念のため」机の下に身を隠しました(結果的にこの動作は正解でした)。

その直後、大きな揺れが始まりました。ブラインドが窓に当たってガンガン鳴り、電気も止まって照明も切れ、室内が暗くなりました。自分の身が倒れないように膝を必死で抱えていました。ふっと机の外に目をやると、1回の揺れで書棚から本が水平に飛び出し、次の揺れで書棚が倒れてきました。見るものすべてに驚くのが精一杯で、恐怖を感じる余裕すらありませんでした。

ずいぶん長く感じられた揺れが収まり、この瞬間を記録しようと、まず自分が身を隠した机の下から、冒頭の写真を取りました。ところが、いざ机の外へ出ようと思ったら、椅子がつかえて外へ出られません。閉じこめられるのではないかと焦りました。無理にもがいても仕方がないので、1分間だけ脱出を試みて、それで出られなければ救助を待つことにして、もがいてみたら、間もなく椅子を押しのけて脱出できました。

廊下に出てみると、同じフロアにいた同僚の方は2,3人でした。隣のセミナー室の廊下に重ねてあった会議用の折りたたみテーブルの山が、見事に崩れて廊下をふさいでいました。私のオフィスのすぐ隣に階段がありますが、下のフロアには化学系の実験室もあり、万一化学薬品の漏出や爆発などが起こっていたりしたら危険ですから、建物の端にある非常階段に行きました。下を見下ろすと、道路(平塚通り)を隔てた大学会館の外にも人が集まっていました。

非常階段を降りて、とりあえず松美池のほとりに出ました。たぶん、学系棟や学群棟にいたと思われる人達が集まっていました。

避難中の15時15分頃には大きな余震がありました。立っているのが困難で座り込む人もいました。

避難して最も不安だったのは、この地震がどのような災害なのかということと、家族は元気かということでした。家族に携帯電話のメールを送ってもなかなかつながりませんでした。そのとき、知り合いの大学院生の人が持っているタブレット端末で、radikoでラジオのニュースを聴き、災害の様子がわかってきました。このとき、情報がいかに大切かということと、このような非常時には原始的な通信手段が最後まで生き残ることを、身をもって知りました。以来、携帯型ラジオをほぼ常に持ち歩いています。

その後、支援室の事務の方が池の前の「大気」の像のところにラジカセを置き、NHKのラジオのニュースを流し始めました。

そうしているうちに、数学以外の専攻では、どうやらスタッフが集まってミーティングが開かれているようでした。一方、数学の関係者は、先生方も学生の人達も、特に会議を開くこともなく、大気の像の周辺にとどまっていました。見たところ、皆さん無事の様子だったのは幸いでした。

私は岩手の出身で、小学校の頃から地震は日常茶飯事、学校の授業や日本海中部地震といった実際の地震などでも地震や津波の怖さを学んでいました。よって、ラジオのニュースを聴いた段階で、地震の大きさからして、きっと、津波など、大きな災害になるだろうと想像しましたが、そのうちに同僚の方が携帯電話のワンセグでニュースを見せてくれました。東北の太平洋岸に押し寄せる津波の映像に目を見張りました。その間にも松美池のほとりにはたくさんの人達がいました。

夕方4時を回り、そろそろ今日は解散ということになりました。学系棟も危険かもしれないので、グループで非常階段を上って建物に入りました。7階の数学域図書室の書庫を廊下から覗いたところ、書架には本がほとんど残っていませんでした。図書室の事務の方がオフィスにお財布を置いているというので、図書室のドアを開けたところ、カード目録を収めたラックがひっくり返っていました。やむを得ず、倒れたラックの上を歩いてお財布を取りに行きました。

それから、何人かの人達と自分のオフィスに向かいました。廊下は水浸しで、消火栓の扉が開いてホースが飛び出していました。後からわかりましたが、水浸しの理由は、消火栓ではなく、天井裏の水道管が切れたことによるものでした。

自分の仕事場に戻ってみると、もともと散らかってはいましたが(笑)、落ちた本で床が見えなくなっていました。その後、しばらくの間、復旧とリニューアル、耐震改修工事が最近まで続きます。

この後、いろいろなことがありました。震災直後にクラス担任として迎えた新入生も昨年春に卒業し、今では大学院生になった何人かの人達と交流が続いています。それから、入学時にその新入生を指導してくれたクラスリーダーの2人は、その後、私のところで東ロボで修士論文を書いてこの春卒業というのも、何かのご縁なのでしょう。これまでのことを記憶にとどめて、これから前へ進んでいきたいと思います。